長く続いたストレスや繰り返されたトラウマのあと、眠れない、びくっとしやすい、感情の波が大きい、自分を強く責めてしまう、人と安心してつながれない。こうしたつらさが重なった状態が複雑性PTSDです。セルフケアは、その苦しさをひとりで抱え込むためのものではなく、安全を増やし、神経の高ぶりを下げ、感情と対人関係を少しずつ整えていくための日々の工夫です。焦って「治そう」とするより、段階的に進めていく考え方が役立ちます。
精神科医ジュディス・ハーマンは、トラウマからの回復を「安全の確保」「想起と追悼」「再結合」という三つの段階で整理しました。この順番は今も多くのトラウマ治療の土台になっています。複雑性PTSDでは、最初の段階である「安全と安定」にかける時間が長くなりやすく、ここを飛ばして過去の記憶に深く入っていくと、かえって不安定になることがあります。
複雑性PTSDのセルフケアで最初に大切なのは、「思い出すこと」ではなく「落ち着けること」です。今の生活を少し安全にすることが、回復の土台になります。
- 症状をなくすことより、安全を増やすことを優先する
眠れない、びくっとしやすい、人が怖い、急に涙が出るといった反応は、弱いから起きているのではなく、危険から身を守ろうとしてきた心身の反応です。 - できる範囲で、少しずつ行う
よいと言われる方法でも、やりすぎると逆に疲れてしまうことがあります。毎日完璧にやるより、続けられる量にすることが大切です。 - つらさが強まるなら中止する
呼吸法や内省が、かえってフラッシュバックや解離を強める方もいます。つらさが増すときは無理をせず、主治医や心理職と相談してください。
複雑性PTSDのセルフケアとは
複雑性PTSDについては、逃げ場の少ないストレスやトラウマが長く続いたあとにみられるこころの不調です。通常のPTSDにみられる再体験・回避・過覚醒に加えて、感情の調整のしにくさ、強い自己否定、対人関係の困難という三つの特徴が並びます。背景には、虐待、ネグレクト、家庭内暴力、支配的な関係、長期にわたるハラスメント、幼少期の逆境体験などがあることがあります。
セルフケアは、専門治療の代わりではありません。医療や心理療法と組み合わせながら、日常の中で自分を支える土台をつくっていく取り組みです。複雑性PTSDでは、次のような段階で進めていくと扱いやすくなります。
- 安全と安心の確保
- 神経系の安定化(呼吸・グラウンディング・身体感覚のリセット)
- 感情調節スキル
- トラウマ思考のリセット
- 自己イメージの回復
- 対人関係の再学習
最初に扱うのは「過去の記憶」ではなく、今の体と心です。神経系が落ち着かないまま記憶を扱おうとすると、フラッシュバックや解離が強まりやすくなります。順番を大切にすることが、遠回りに見えて早道です。
神経系を落ち着かせる
複雑性PTSDでは、危険が去ったあとも体が危険を探し続け、常に緊張したままになりやすくなります。ちょっとした音や表情にびくっとしたり、逆に感覚が遠のいて現実感が薄くなったりします。こうした状態では、頭で考えて整えるのが難しいため、まず体から落ち着かせる方法が役立ちます。神経系のバランスを整える視点はポリヴェーガル理論とも呼ばれ、呼吸・声・表情・安心できる人との関わりが自律神経に働きかけると考えられています。
呼吸を整える
息をゆっくり吐くことは、体の緊張をゆるめる助けになります。吸うよりも吐くほうを少し長めに意識すると取り組みやすいです。
- 4秒で吸って、6秒くらいでゆっくり吐く
- 1回3〜5分から始める
- 苦しくなるなら数を数えず、「少し長めに吐く」だけでもよい
グラウンディングを使う
フラッシュバック、強い不安、解離感が出ているときは、「今ここ」に注意を戻すグラウンディングが役立つことがあります。代表的なのが5-4-3-2-1法です。
- 見えるものを5つ探す
- 触れられるものを4つ確かめる
- 聞こえる音を3つ意識する
- においを2つ探す
- 味を1つ確かめる
足の裏を床に押しつける、椅子の感触を確かめる、冷たい飲み物を一口飲む、名前や今日の日付を声に出すのも、シンプルで使いやすい方法です。「今は安全な場所にいる」「これは思い出で、今の出来事ではない」と短く言葉にすることも助けになります。
体を安全側へ戻す
散歩、軽いストレッチ、ぬるめの入浴、肩や背中を温めること、安心できる香りや音楽を使うことも、緊張した体をゆるめる助けになります。激しい運動で一気に追い込むより、「終わったあと少し楽になる」程度の軽い刺激を選ぶほうが向いていることが多いです。
感情調節スキル
複雑性PTSDでは、怒り、恐怖、悲しみ、恥、無力感が急に強くなったり、逆に何も感じなくなったりすることがあります。ここで大切なのは、感情をなくすことではなく、感情に気づき、強さを見きわめ、少し下げることです。
感情に名前をつける
「つらい」だけでは扱いにくいものでも、怒り・不安・悲しみ・恥・無力感というように分けて言葉にすると、少し距離が生まれます。感情に名前をつける行為そのものが脳の落ち着きを助けると考えられており、「感情ラベリング」と呼ばれます。
| 状況 | 浮かんだ気持ち | 体の反応 | できる対処 |
|---|---|---|---|
| 強い口調で言われた | 恐怖、怒り | 心臓が速い、肩が固い | 席を外す、呼吸を整える |
| 返信が来ない | 不安、見捨てられ感 | そわそわする | すぐに結論を出さず、30分待つ |
| 失敗を思い出した | 恥、自責 | 胸が苦しい | 今の事実を3つ書く |
感情の温度を記録する
0〜10で強さをつけるやり方はシンプルですが有効です。怒り8、不安6、悲しみ4のように記録していくと、自分のパターンが見えてきます。7以上のときはその場で結論を出さない、返信しない、大事な話をしないというルールを自分で決めておくと、後悔しやすい判断を減らせます。
トラウマ思考のリセット
複雑性PTSDでは、「自分が悪い」「自分には価値がない」「どうせ誰も助けてくれない」「世界は危険だ」といった考えが強くなりやすいです。これは性格ではなく、長く続いた脅威や傷つきの中で身についた見方であることが少なくありません。
自動思考をそのまま事実にしない
| 浮かびやすい考え | 少し現実に近い言い換え |
|---|---|
| 私はダメな人間だ | 今とても傷ついていて、厳しく自分を見ている |
| 誰も信じられない | 安全でない相手がいた。一方で安全な人を見分ける練習はできる |
| 私は愛されない | そう感じる体験をしてきたが、それが絶対の真実とは限らない |
| 世界はすべて危険だ | 危険な場面があった。今は安全な瞬間もあると確かめてみる |
ここで大切なのは、無理に前向きになることではありません。つらさを否定せずに、思考と事実を少し離してみるのが目標です。言い換えが難しいときは、「それは長いあいだ自分を守ってきた考え方だった」と受け止めるだけでも十分です。
自己イメージの回復
長くトラウマにさらされた方は、「本当の自分はどこにもいない」「いい子でいないと存在できない」「泣いてはいけない」といった古い命令を抱えていることがあります。自己イメージの回復とは、こうした古い声を少しずつゆるめ、今の自分に優しくなる練習です。
セルフコンパッションを練習する
自己否定が強いときほど、「厳しくしないと立て直せない」と感じがちです。しかし実際には、責め続けるほど回復が遅れることもあります。次のような短い言葉を、朝や夜に一度声に出す、または書き出すだけでも構いません。
- 私はよく耐えてきた
- 今つらいのには理由がある
- 少しずつ安全を増やしていけばよい
- 完璧でなくても、私は大切にされてよい
内なる子どものワーク
幼い頃に安全や安心を十分に受け取れなかった場合、自分の中に「小さかった頃の自分」がそのまま残っていることがあります。辛くなったときに、「あのとき怖かったね」「あなたのせいじゃないよ」「今はもう守れるよ」と、今の自分が幼い自分に声をかけるワークは、自己批判を少しゆるめる助けになります。強い解離や混乱があるときは、ひとりで深く進めず、主治医や心理職と相談しながら行うほうが安全です。
対人関係の再学習
複雑性PTSDのつらさは、対人関係で強く出やすいものです。相手を強く警戒して近づけないこともあれば、逆に見捨てられる不安から無理に合わせすぎてしまうこともあります。大切なのは、すぐに人を信じることではなく、安全な距離を作ることです。
使ってよい境界線の言葉
- 今は答えられません
- 少し考える時間が必要です
- その話題は今日はやめたいです
- それは引き受けられません
小さな「安全だった経験」を重ねる
いきなり深い相談をする必要はありません。挨拶、短い雑談、連絡を1回返す、といった小さなやりとりから「安全だった経験」を積み重ねることが、回復の助けになります。安心できる相手を見分ける感覚は、一度に身につくものではなく、何度もの失敗と修正を経て少しずつ育っていきます。
トラウマトリガー管理
複雑性PTSDでは、大声、におい、似た表情、部屋の空気、特定の曜日や季節など、さまざまなものがトリガーになります。きっかけを避けきれないことも多いため、自分のトリガーを知り、反応したときの手順を決めておくことが大切です。
- 気づく
「今、反応が起きている」と言葉にする - 安全確認をする
「ここは今の場所で、過去ではない」と確認する - 体を落ち着かせる
呼吸、足裏、冷水、周囲を見るなどのグラウンディングを使う - 必要なら離れる
トイレへ行く、外気に当たる、信頼できる人へ短く連絡する
トリガー日記も役立ちます。「何が起きたか」「そのときの感情」「体の反応」「どう対処したか」を短く記録すると、自分に合う方法が見えてきます。解離が強いときは無理に分析を続けず、まず体を落ち着かせることを優先してください。
生活リズムを整える
睡眠、食事、活動量は、複雑性PTSDの症状に大きく影響します。とくに睡眠不足は、過覚醒、不安、イライラ、解離感を悪化させやすく、翌日の対人ストレスにも弱くなります。
- 睡眠:起床時刻だけでも大きくずらしすぎない
- 食事:空腹を放置しすぎず、血糖が大きく乱れないようにする
- 活動:一日中休み続ける日と、予定を詰め込みすぎる日を行き来しない
- 刺激物:夕方以降のカフェイン、飲酒、寝る前の長時間スマートフォンは悪化要因になりやすい
朝に少し光を浴びる、短い散歩をする、寝る前に照明を落とす、といった小さな工夫が役立つことがあります。生活が乱れたときも自分を責めず、次の一食・次の一晩から整え直すという視点でよいのです。
専門治療と組み合わせる
セルフケアと並行して、医療や心理的支援を使うことで回復が進みやすくなります。複雑性PTSDでは、トラウマの内容にすぐ深く入るよりも、まず感情調整や対人関係のスキルを整えてから治療を進める方法が検討されます。
- トラウマフォーカスト認知行動療法:トラウマに焦点を当てた心理療法の代表。段階的に記憶や回避への対処に取り組みます。
- EMDR(眼球運動による脱感作と再処理法):一定のリズムで目を動かしながら記憶の処理を助ける心理療法。PTSDに対する有効性が報告されています。
- STAIR Narrative Therapy:複雑性PTSDを想定し、感情調整と対人関係のスキルを整えたあとにトラウマ記憶の処理を進める段階的な心理療法です。
- 薬物療法:不眠、不安、抑うつに対して使われます。複雑性PTSDそのものに直接効く薬はまだ限られていますが、併存する症状をやわらげることで日常の負担を減らせます。
- 生活のサポート:福祉、就労、家族支援、自助グループなど、生活面の安定も回復の大きな柱になります。
解離が強いとき、自殺念慮があるとき、生活が急に保てなくなっているときは、過去の記憶を掘り下げるより先に安全と安定を整えることが優先です。ひとりで抱えず、主治医や心理職、地域の支援機関につながってください。
回復の見通し
複雑性PTSDの回復は、一直線には進みません。数週間〜数か月で眠りや緊張が少し楽になることもあれば、自己イメージや対人関係の回復には年単位の時間がかかることもあります。大切なのは、一直線の回復を期待しすぎず、波がありながらも安心できる時間を少しずつ増やしていくことです。
うまくいかない時期は「失敗」ではなく、次の調整の手がかりです。生活が乱れたり、つらさが強まったりしたときも、またセルフケアの小さな一歩に戻ってくればよい。そう考えておけると、回復を続けやすくなります。
家族や周囲の方へ
複雑性PTSDの方を支える家族や身近な方もまた、つらさを抱えやすい立場です。本人の反応が急に大きく変わる、突然距離を置きたがる、逆に強く頼られる、といった波に戸惑うことも少なくありません。これは本人の性格ではなく、長く続いたトラウマの反応であると理解しておくと、関わり方の選択肢が広がります。
- 「あなたは弱いからだ」と責める言葉は避ける
- 「話したいときに話していいよ」と、無理に聞き出さない
- 急に距離を取られても、人格否定と受け止めず、本人の安全確保のサインと理解する
- 家族自身の休息と相談先も確保する
家族や周囲の方自身も、精神保健福祉センター、保健所、家族会などの相談先を持ってください。支える側が倒れてしまわないことも、本人の回復にとって大切な要素です。
早めに相談したいサイン
- フラッシュバックや悪夢が強く、日中の生活が保てない
- 解離が強く、時間や記憶が飛ぶことがある
- 自分を傷つけたい気持ち、死にたい気持ちが出ている
- 飲酒や市販薬、処方薬への頼り方が増えている
- 人間関係、仕事、家事、育児が急に維持できなくなっている
- セルフケアを試すと、かえってつらさが強まることが続く
このような場合は、セルフケアを強化するよりも、精神科・心療内科・心理職・地域の支援機関とつながることが重要です。「消えてしまいたい」「もう耐えられない」という気持ちが強いときは、受診を待たず、いのちの電話(0570-783-556)や、よりそいホットライン(0120-279-338)にご連絡ください。
よくある質問
セルフケアだけで複雑性PTSDは良くなりますか?
セルフケアはとても大切ですが、それだけで十分とは限りません。症状が軽い時期の安定化には役立ちますが、フラッシュバック、強い自己否定、解離、自傷念慮がある場合は、医療や心理支援を併用するほうが安全です。セルフケアは「専門治療の代わり」ではなく「専門治療と一緒に日常を支えるもの」と考えてください。
つらい記憶を思い出して整理したほうがいいですか?
準備が整っていない段階で無理に掘り下げると、かえって不安定になることがあります。まずは睡眠、安全、日常生活、感情調整を整えることが優先です。記憶に触れる作業は、必要になったときに、訓練を受けた治療者と一緒に進めることが安全です。
回復にはどれくらい時間がかかりますか?
かなり個人差があります。数週間〜数か月で眠りや緊張が少し楽になることもあれば、自己イメージや対人関係の回復にはより長い時間がかかることもあります。大切なのは、一直線の回復を期待しすぎず、波があっても続けられる支援を持つことです。
呼吸法で逆につらくなります。続けるべきですか?
呼吸や内省で不安やフラッシュバックが強まる方もいます。無理に続ける必要はありません。グラウンディング、歩く、水を飲む、冷たいものに触れるといった体の外側からの刺激のほうが合うこともあります。主治医や心理職と相談しながら、自分に合う方法を選んでください。
まとめ
複雑性PTSDのセルフケアで大切なのは、安全を増やし、神経の高ぶりを下げ、感情と対人関係を少しずつ整えていくことです。回復の出発点は、「強くなること」ではなく、「安心できる時間を少しずつ増やすこと」にあります。
つらさが強いときほど、自分を責めて頑張りすぎるより、まず眠る、食べる、呼吸する、足を床につける、信頼できる人や支援先につながる、といった小さな行動が助けになります。セルフケアで抱えきれないと感じたら、医療や心理支援を遠慮なく使ってください。ひとりで抱え込まないことそのものが、回復の大切な一歩です。
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参考文献
- 国立精神・神経医療研究センター こころの情報サイト「PTSD」
- 国立精神・神経医療研究センター「複雑性PTSD治療前進へ」
- 国立精神・神経医療研究センター「STAIR Narrative Therapyワークショップ」
- 精神神経学雑誌「ICD-11におけるComplex PTSD診断」
- 厚生労働省/WHO「心理的応急処置フィールド・ガイド」
- Herman JL. Trauma and Recovery. Basic Books. 1992.
※複雑性PTSDが疑われる場合でも、症状の現れ方は人によって異なります。実際の診断や治療方針は、主治医と相談しながら個別に決めることが大切です。

