
「子どもの頃のことが、いまの生きづらさに影響している気がする」。そう感じたことはないでしょうか。感じていても、「昔のことを引きずる自分が弱いだけだ」と、自分を責めて終わりにしてきた方は少なくありません。けれども、その感覚には裏づけがあります。子ども時代のつらい体験が大人の心身に長く影響しうることは、国内外の研究で繰り返し報告されてきました。
その「子ども時代のつらい体験」を捉えるための言葉が、幼少期の逆境体験です。含まれるのは、虐待、ネグレクト、家庭内暴力などです。家族の依存症や精神疾患、親の離別や服役も入ります。子ども時代に長く、あるいは強くさらされるつらい出来事を、まとめて捉える考え方です。ただし、これは病名ではありません。病名ではないのに、その後のこころとからだの健康、対人関係、生きづらさに長く影響を残すことがあります。
では、いま続いている苦しさそのものには、名前が付かないのでしょうか。その一部に対応する診断概念が、複雑性PTSDです。国際的な診断分類であるICD-11に位置づけられています。長期にわたり、反復的で、逃げにくいつらい体験のあとに生じうる状態です。悪夢やフラッシュバックといった心的外傷後ストレス症(PTSD)の症状だけではありません。感情のコントロールの難しさ、強い自己否定、対人関係の持続的な難しさが重なって目立ちます。
このページでは、幼少期の逆境体験という視点と、複雑性PTSDという診断概念のつながりを整理します。出発点に置くのは、「あなたに何が悪いのか」ではなく「あなたに何が起きてきたのか」という問いです。次のような状態が長く続いている方に、読んでいただきたい内容です。
- 感情の波が大きく、自分で抑えにくい
- 「自分には価値がない」と強く感じてしまう
- 人と安心してつながりにくい、近づきたいのに怖い
- 眠れない、悪夢を見る、突然の動悸や恐怖がある
- 頭痛、腹痛、倦怠感など身体の不調が慢性的に続く
- 過去を思い出すと現実感がなくなる、からだが固まる
幼少期の逆境体験とは
「自分の経験は、逆境と呼べるほどのものだったのだろうか」。そう迷いながら話し始める方は少なくありません。迷って当然です。この概念は、体験の重さを他人と比べるために作られたものではないからです。始まりは1990年代後半、アメリカの大規模な健康調査でした。子ども時代の逆境が、その後の心身の健康に広く影響しうる。この結果をきっかけに、国際的に知られるようになりました。日本でも、厚生労働省や国立精神・神経医療研究センターが紹介しています。トラウマインフォームドな支援、つまり傷つきの影響を前提に置く支援の基礎概念としてです。
定義にはいくつかのバリエーションがありますが、もともとよく知られているのは次の10項目です。当てはまる数を数えて、人を振り分けるための表ではありません。点数が高い人を決めつける道具ではなく、支援の必要性を考えるための視点として使うことが大切です。
幼少期の逆境体験は、「あなたのせいで起きたこと」ではありません。子どもは家庭や学校の環境を選べません。逃げる手段も限られています。大人になっても苦しさが続くのは、意思が弱いからでも、努力が足りないからでもありません。幼いときに、耐える以外の選択肢がなかった時間が長かったからです。
どのような体験が含まれるのか
- 心理的虐待(罵倒、侮辱、脅し、強い否定)
- 身体的虐待
- 性的虐待
- 心理的ネグレクト(大切にされない、気にかけてもらえない)
- 身体的ネグレクト(食事、衣服、衛生、安全の不足)
- 家族のアルコール・薬物の問題
- 家族のうつ病など精神疾患や自殺企図
- 家庭内暴力への曝露
- 両親の別居・離婚
- 家族の服役・犯罪歴
一覧には、殴る・蹴るのような分かりやすい被害だけが並んでいるわけではありません。長いあいだ強く否定される。失敗を許されない。進学や就職、結婚まで、自分では決めさせてもらえない。外からは「恵まれている」と見えても、そうした日々のなかで自分の気持ちや望みが育ちにくくなることがあります。
こうした環境で育った方の訴えには、共通の響きがあります。「何がしたいのかわからない」「生きがいがない」「空っぽな感じがする」「正解を外すのが怖い」。はっきりした虐待の記憶がないからといって、苦しさが軽いわけではありません。目立ちにくい心理的な逆境体験も、同じくらい丁寧に扱う必要があります。
大人になってから現れる影響
子ども時代の体験は、大人になれば関係がなくなる。そう考えたいところですが、調査の結果は違いました。幼少期の逆境体験が多いほど、大人になってからの不調のリスクが高まりうることが、広く報告されています。抑うつ、不安症、依存症、自傷、自殺企図、生活習慣病など、その範囲は心にもからだにも及びます。該当する項目が多いほど、リスクは大きくなる傾向があります。この量と結果の関係は、公衆衛生の分野でも注目されてきました。具体的には、次のような不調との関連が指摘されています。
- 抑うつ、不安症、パニック症、強迫症
- 依存症(アルコール、薬物、ギャンブル、性など)
- 摂食症、自傷、過量服薬
- 慢性的な不眠、悪夢
- 対人関係の持続的な難しさ、見捨てられ不安
- 自己免疫疾患、慢性疼痛、過敏性腸症候群などの身体疾患
ただし、この一覧は運命の予告ではありません。幼少期の逆境体験があったからといって、必ず病気になるわけではありません。安心できる大人との出会い、適切な支援、生活の安定。本人の回復する力を引き出す関わり。そうしたものによって、影響は和らぎえます。
近年は、子ども時代の「よい体験」に目を向ける考え方も重視されています。安全な家。信頼できる友だち。自分の話を聞いてくれる先生。所属感のある場所。こうした保護的な体験が、あとからでも回復の土台になることが分かってきています。
脳と体に残る影響
「気持ちの問題なら、気の持ちようで変えられるはずだ」。そう言われて、傷ついてきた方もいるかもしれません。実際には、つらい体験は気持ちの問題だけでは片づきません。からだには、ストレスホルモンを調整する仕組みがあります。視床下部・下垂体・副腎のつながりです。強い恐怖や緊張に長くさらされると、このバランスが崩れやすくなります。記憶や感情、警戒に関わる脳の部分の働き方が変わることも、繰り返し報告されています。海馬・扁桃体・前頭前野と呼ばれる場所です。
この変化は、頭の中だけにとどまりません。睡眠、食欲、集中力、自律神経、痛みの感じ方。心身のさまざまな領域に影響が及びます。トラウマに関連する症状のある方が、身体の不調を強く訴えることは珍しくありません。腹痛、頭痛、倦怠感、動悸、過敏性腸症候群などです。「甘え」「考えすぎ」と片づけてしまう前に、立ち止まる価値があります。過去の体験が、今の心身の反応にどう影響しているか。この視点が、不調の見え方を変えることがあります。
強いストレスが長く続くと、遺伝子の「使われ方」に微妙な影響が残る可能性も調べられています。こう聞くと、「生まれつきのレベルで決まってしまったのか」と不安になるかもしれません。そうではありません。遺伝子そのものが書き換わるのではなく、スイッチのオンオフのような仕組みが変化する話です。スイッチであれば、また切り替わる余地があります。環境が整い、安心できる関係が続けば、働き方はまた変わっていきうると考えられています。
複雑性PTSDとのつながり
幼少期の逆境体験そのものは、病名ではありません。では、その影響が長く深く残ったとき、診療では何を手がかりに考えるのでしょうか。その手がかりの一つが、複雑性PTSDです。長期にわたり、反復的で、逃げにくいつらい体験のあとに生じやすいと考えられています。代表的なのは、虐待、いじめ、家庭内暴力、性暴力、支配的な対人関係、慢性的な被害体験などです。幼少期の逆境体験は、そのなかでも特に大きな引き金になりうるものの一つです。
症状には、大きく2つの層があります。1つ目は、PTSDに共通する再体験・回避・持続する脅威感です。再体験は、悪夢やフラッシュバック、突然よみがえる記憶を指します。回避は、思い出させる場所や物事を避けることです。持続する脅威感は、過覚醒や過敏、絶え間ない警戒として現れます。2つ目が、複雑性PTSDで目立ちやすい層です。感情のコントロールの難しさ、強い自己否定、人との安定した関係の持ちにくさ。日常の場面に置き換えると、次のような形をとります。
- ささいなきっかけで感情があふれる、逆に何も感じなくなる
- 「自分には価値がない」「自分が悪い」と強く思ってしまう
- 人を信じたいのに怖い、近づきたいのに離れたくなる
- 親密さが怖く、孤立しやすい
- 解離、自己否定、自傷、依存的な行動が背景にあることがある
PTSDでも、強い苦痛は生じます。複雑性PTSDでそこに重なるのは、「自分そのものが傷ついてしまった感覚」です。気分の波、対人不安、慢性的な空虚感、見捨てられ不安、強い恥の感覚。「何がつらいのか、自分でも整理できない」と感じる方も少なくありません。そのため、受診のきっかけが別の病名になることもあります。抑うつ、不安症、パーソナリティ症、解離症、摂食症、依存症などです。その背景にあるトラウマ関連の問題が、見逃されている場合もあるのです。
回復のために大切なこと
「治療を受けるなら、あのときのことを全部話さなければならないのだろうか」。この不安が、相談をためらわせていることがよくあります。実際には、いきなりつらい記憶に深く踏み込むことが常に最善とは限りません。まず必要なのは、安全の確保、生活の安定、眠る・食べる・休むことの回復、信頼できる支援者との関係づくりです。トラウマの治療は、急がず、本人のペースと自己決定を尊重しながら進めます。
1. 安全な関係を取り戻す
暴力や支配が、今も続いている場合があります。そのときは、まずそこから距離を取ることが最優先です。住まい、経済、暴力からの距離。これ以上傷つかない場所の確保が、どの治療よりも先に必要になります。並行して、安心して話せる人、主治医、支援者との信頼関係を少しずつ育てていきます。これは時間のかかる歩みです。一度きりの相談で「治す」ものではありません。
2. 専門治療(心理療法と薬物療法)
心理療法では、PTSDに対する認知行動療法が国際的に用いられています。持続エクスポージャー療法や認知処理療法などです。眼球運動による脱感作と再処理法(EMDR)も知られています。複雑性PTSDに対しては、感情の調整や対人関係のスキルを先に整えるアプローチが役立つことがあります。(当院では、認知行動療法、EMDRは行っておりません)。国内では、国立精神・神経医療研究センターが中心となった臨床研究も進められています。段階的なスキル訓練と物語療法を組み合わせた、治療プログラムの研究です。
薬は、どのような位置づけなのでしょうか。薬物療法の目的は、複雑性PTSDそのものを直接消すことではありません。併存する抑うつ、不安、不眠、過覚醒、悪夢などをやわらげるために使われます。選ばれることが多いのは、選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)などの抗うつ薬です。必要に応じて、睡眠を整える薬などが併用されます。どの薬をどれくらい使うかは、症状の性質や体質、合併症を踏まえて、主治医と相談しながら決めます。
3. セルフケアと生活の土台
治療は、診察室の中だけで進むものではありません。眠る・食べる・休む・動くという生活の土台を整えることが、回復の力強い支えになります。呼吸法やストレッチ、軽い運動、日光を浴びる時間。信頼できる人と過ごす時間。こうした積み重ねは、過覚醒や不安をやわらげるのに役立ちます。感情が高ぶったときの対処法も、いくつか手元に持っておきたいところです。使える手立てが増えるほど、自分を大事にできる感覚が少しずつ戻ってきます。詳しい工夫は、複雑性PTSDのセルフケアについてのページも参考にしてください。
4. 支援機関とつながる
支えは、医療だけとは限りません。精神保健福祉センター、女性相談支援センター、児童相談所、DV相談窓口。こうした医療以外の窓口も、回復の大きな助けになります。住居、仕事、福祉、法律、学校。生活を支える枠組みが多いほど、治療も続けやすくなります。窓口は、一つに絞らなくてかまいません。一人で抱え込まず、複数の窓口を同時に使ってよいのです。
家族や周囲の方へ
身近で支えようとすると、戸惑う場面が続くかもしれません。約束が守られない。通院が続かない。関係が急に不安定になる。幼少期から過酷な環境を生き延びてきた方にとって、「助けて」と言うことは簡単ではありません。支援を試すこと自体が、怖い場合もあります。だからこそ、そうした揺れを「やる気がない」「性格の問題」と決めつけないことが大切です。関わるときは、次の点を手がかりにしてください。
- 判断や説教を急がず、まず体験の重さを想像する
- 「どうしてできないのか」ではなく「何が起きると難しくなるのか」を一緒に考える
- 本人の自己決定を尊重し、支援を押しつけない
- 良くなったり悪くなったりがあっても、つながり直せる余地を残す
- 住居、仕事、福祉、法律、学校など医療以外の支援とも連携する
- 支援する側も孤立せず、チームや相談できる場を持つ
これは「何でも許す」という意味ではありません。暴力や違法行為、自他の安全に関わる問題には、境界線を保ちながら毅然と対応する必要があります。そのうえで、「自分で選べる」「人生を少し取り戻せる」という本人の感覚を支えることが、回復の土台になります。
早めに相談したいサイン
- 悪夢やフラッシュバック、突然の強い動悸や恐怖が続く
- 人といると極端に疲れる、または信じられない
- 感情の波が大きく、自分で抑えにくい
- 慢性的な自己否定、自責、恥の感覚が強い
- 解離、自傷、過量服薬、依存的な行動がある
- 過去を思い出すと現実感がなくなる、からだが固まる
- 生活、仕事、人間関係が長く立ちゆかなくなっている
当てはまる状態が続いているなら、一人で耐え続ける必要はありません。精神科・心療内科、トラウマ支援に慣れた医療機関、地域の精神保健福祉センターなどに相談してください。自傷や希死念慮があるとき、暴力の被害が現在も続いているときは、より早い支援が必要です。次の窓口は、今日からでも使える連絡先です。
- よりそいホットライン(厚生労働省補助事業):0120-279-338(24時間・通話料無料)
- いのちの電話:0570-783-556(毎日10時〜22時)/フリーダイヤル 0120-783-556(毎日16時〜21時、毎月10日は8時〜翌日8時)
- こころの健康相談統一ダイヤル:0570-064-556(各自治体の相談窓口につながる)
- DV相談+(プラス):0120-279-889(24時間)
- 児童相談所虐待対応ダイヤル:189(いちはやく)
よくある質問
幼少期の逆境体験があると、必ず複雑性PTSDになりますか?
いいえ、必ずしもそうなるわけではありません。同じような体験をしても、症状の出方は人それぞれです。安心できる大人との出会い、適切な支援、生活の安定、本人の回復する力。そうしたものによって、影響は和らぎえます。一方で、いま苦しさが長く続いているなら、それは意思の弱さの証拠ではありません。体と心が、長いあいだ無理を重ねてきたサインです。
親は普通に育ててくれたはずなのに、苦しさが続きます
分かりやすい虐待の記憶がなくても、苦しさが続くことはあります。長いあいだ強く否定される、過剰に支配される、失敗を許されない。そうした環境で育つと、自分の気持ちや望みが育ちにくくなることがあります。「恵まれていたのに苦しい自分はおかしい」と感じる必要はありません。目に見えにくい逆境体験も、丁寧に扱う価値があります。
治療はすぐにトラウマの話をするのでしょうか?
いいえ。まず安全の確保や生活の立て直しを優先し、信頼関係を育てながら段階的に進めるのが原則です。つらい記憶にいきなり踏み込むのではなく、本人のペースと自己決定を尊重しながら、ゆっくり進めます。いつ、何を、どこまで話すか。それも、一緒に相談しながら決めていきます。
まとめ
「子どもの頃のことが、いまの生きづらさに影響している気がする」。その感覚は、気のせいではありません。幼少期の逆境体験は、子ども時代のつらい出来事を理解するための視点です。複雑性PTSDは、その影響が長く深く残ったときに現れうる診断概念の一つです。どちらも、人を決めつけるための言葉ではありません。「これまで何が起きてきたのか」を理解しながら、安全・関係・自己決定を回復の軸に据えるための言葉です。つらさを抱えてきた時間が長い方ほど、回復にも時間がかかることがあります。それでも、適切な支援と安心できる関係のなかで、少しずつ自分の人生を取り戻していく道筋はあります。
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参考文献
- 国立精神・神経医療研究センター こころの情報サイト
- 国立精神・神経医療研究センター「複雑性PTSD治療前進へ」
- 国立精神・神経医療研究センター「複雑性PTSD治療を届けるために」
- 国立精神・神経医療研究センター「トラウマ&バイオレンス・インフォームドケア」
- 幼少期の逆境体験と成人期の健康に関する米国ACE研究(Felitti VJ, et al. Am J Prev Med. 1998)
- 複数の幼少期逆境体験が健康に及ぼす影響のメタ解析(Hughes K, et al. Lancet Public Health. 2017)
- 児童期の虐待・ネグレクトが脳に及ぼす影響に関する総説(Teicher MH, Samson JA. J Child Psychol Psychiatry. 2016)
- 肯定的な小児期体験と成人のこころの健康の関連(Bethell C, et al. JAMA Pediatr. 2019)

