「事件と呼べるほどの出来事は、なかった気がする。ただ、つらい日々が長く続いただけ」。そう考えて、相談をためらってきた方は少なくありません。感情の波も、抜けない自分責めも、「性格のせい」だと片づけながら。
けれども精神科には、この状態にあてはまりうる名前があります。複雑性PTSDです。長いあいだ、逃げ場の少ない強いストレスやトラウマにさらされたあとにみられる不調です。単に「つらい出来事を思い出して苦しい」だけではありません。感情の調整が難しい、自分をひどく責めてしまう、人と安心してつながれない。こうした困りごとが、生活全体に広がっていくのが特徴です。
背景には、幼少期からの虐待やネグレクト、家庭内暴力がみられることがあります。長期にわたるいじめやハラスメント、支配的な人間関係、監禁や搾取のこともあります。共通するのは、繰り返される・逃れにくい・助けを求めにくいという性質です。ただし、診断は体験の種類だけで決まるわけではありません。現在どのような症状が続き、生活にどんな支障が出ているか。診察で確かめるのは、そちらです。たとえば、次のような形で現れます。
- フラッシュバックや悪夢で当時の場面が突然よみがえる
- 音・におい・人の表情などに過敏に反応し、気が休まらない
- 感情が急にあふれたり、逆に何も感じなくなったりする
- 「自分には価値がない」「自分が悪い」という思いが抜けない
- 人を信じたい気持ちと逃げたい気持ちが同時に起こり、対人関係が続かない
- つらさをしのぐために自傷・過量服薬・アルコール・過食などに頼ってしまう
どれも、めずらしい訴えではありません。診察室で繰り返しうかがう、複雑性PTSDの典型的な困りごとです。
複雑性PTSDは、国際的な診断基準で正式に位置づけられた状態です。心的外傷後ストレス症(PTSD)の3つの中核症状に、さらに3つの困難が重なります。感情調整の困難・否定的自己概念・対人関係の持続的困難です。この6つがそろって続くときに用いられる診断です。
複雑性PTSDとは
「PTSDなら聞いたことがある。複雑性とつくと、何が違うのだろう」。複雑性PTSDは、英語圏で長く議論されてきた概念でした。議論の対象ではあっても、正式な診断名ではない時期が長かったのです。転機は、世界保健機関の国際疾病分類の最新版です。ここで、PTSDとは別の独立したカテゴリとして位置づけられました。指しているのは、PTSDの基本症状と、自己と対人関係にかかわる深い傷つきがそろって続いている状態です。
では、通常のPTSDと何が違うのでしょうか。まず、きっかけの質が違います。通常のPTSDは、事故や災害、暴力被害など、比較的短期間の強い出来事のあとに起こることが多い病気です。一方の複雑性PTSDでは、逃げ場がないまま反復して体験したトラウマが背景になりやすいのです。幼少期からの家庭内の虐待や支配、長期にわたるドメスティック・バイオレンス(DV)、戦時下や監禁などです。ただし、体験の種類だけで自動的に診断がつくわけではありません。今どのような症状が、どれくらい続いているか。生活や対人関係に、どれだけ影響しているか。そこが判断の材料になります。
どのような体験から起こるのか
「自分の体験は、トラウマと呼べるほどのものだろうか」。そう、ためらいながら話す方もいらっしゃいます。複雑性PTSDの背景には、次のような体験がみられることがあります。共通するのは、長期的・反復的で、自力では逃れにくいという性質です。
- 幼少期からの身体的・性的・心理的虐待、ネグレクト
- 家庭内暴力(DV)、支配的なパートナーとの関係
- 長期にわたるいじめ、ハラスメント、搾取的な職場環境
- 監禁、人身取引、強制労働、戦時下の体験
- 宗教的・組織的な支配下での継続的な心理的虐待
どれも、「事件」として報道されるような出来事ばかりではありません。家庭や職場という日常のなかで、静かに続くものも含まれます。「大きな事件はなかった」という感覚と症状の重さが食い違うのは、このためです。
同じ体験をしても、全員が複雑性PTSDになるわけではありません。もともとの気質、支えてくれる人の有無、体験の時期、その後のケアの質。さまざまな要素が重なって、症状の出方は変わります。だから診察では、「ひどい体験があったか」だけを聞くのではありません。今どんな場面で困っているか、体はどう反応するか、眠れているか。仕事や人間関係への影響も含めて、丁寧に聞き取っていきます。
背景としてよく知られているのが、子ども時代の幼少期の逆境体験です。大人になってからの複雑性PTSDや抑うつ、依存症、身体疾患のリスクと関連することが報告されています。ただし「逆境があれば必ず発症する」という意味ではありません。リスクが積み重なりやすい、という傾向を示すものです。背景の理解は、本人を責める材料ではありません。どこに回復のための支援が必要かを見つけるための手がかりとして用います。
どのような症状がみられるのか
自分や家族に、当てはまるのだろうか。そう確かめるときは、6つの柱に分けて整理するとわかりやすくなります。PTSDの3つの基本症状と、自己組織化の障害と呼ばれる3つの症状群です。前半の3つはPTSDと共通し、後半の3つが複雑性PTSDの特徴です。複数の領域でつらさが続いているとき、医療者は複雑性PTSDを考えます。
再体験
代表的なのは、フラッシュバックや悪夢です。突然の強い恐怖に襲われたり、体が当時の反応を思い出したりします。「今また同じことが起きている」という感覚になる方もいます。思い出そうとして、思い出しているのではありません。勝手に記憶が押し寄せてくることが特徴です。
回避
思い出しそうなものを、避けるようになります。場所、人、会話、におい、音、そして感情そのものです。本人は「気にしすぎだ」と自分を責めやすいのですが、回避は危険を遠ざけようとする自然な反応です。その延長で症状が固定してしまう、という仕組みがあるだけです。
現在の脅威感
警戒も、解けなくなります。過覚醒、びくつき、不眠、常に身構えてしまう、音や人の気配に敏感、安心して力を抜けない。脳と体の「警報装置」が下がりにくい状態が続き、疲れやすさにもつながります。
感情調整の困難
ここからの3つが、自己組織化の障害の領域です。一つめは、感情の調整の難しさです。
- 怒り、恐怖、恥、悲しみが急に強くなる
- 感情があふれるか、逆に何も感じないように麻痺する
- 落ち着くまでに長い時間がかかる
- 自傷、過食、アルコール、多量服薬などで一時的に気持ちをしずめようとすることがある
否定的自己概念
二つめは、自分自身への見方です。
- 「自分が悪い」「自分には価値がない」という思いが強い
- 恥や罪悪感が抜けにくい
- ほめられても信じられず、自分を守るに値しないと感じてしまう
- 自分の感情や欲求を主張することに強い抵抗がある
「性格のせい」と片づけてきたものの正体が、ここにあるのかもしれません。自分を責める思いの強さは、それ自体が症状の一つとして扱われます。
対人関係の持続的な困難
三つめは、人とのつながりです。
- 人を信じたいのに信じられない
- 近づきたい気持ちと逃げたい気持ちが同時に起こる
- 支配されやすい関係や、傷つく関係を繰り返してしまうことがある
- 安心できる関係を維持するのが難しい
これらに加えて、解離がみられる方もいます。ぼんやりして現実感が薄れる、記憶がとぶ、気づくと時間が過ぎている、自分が自分でないように感じる。こうした訴えは珍しくありません。解離は、複雑性PTSDに必須の症状ではありません。ただ、つらさが強いときに前景に出やすい反応で、診察では大切な手がかりになります。
通常のPTSDとの違い
6つの柱を確かめるうちに、迷いが出てくるかもしれません。「自分はPTSDなのか、それとも複雑性PTSDなのか」。両者はどちらも、トラウマのあとに起こりうる状態です。違いは、PTSDの基本症状に加えて、自己と対人関係にかかわる深い傷つきが前景に出るかどうかです。「思い出すとつらい」だけではありません。「自分には価値がない」「誰も信じられない」「少しのことで感情があふれる」。複雑性PTSDでは、こうした状態が続きやすいのです。
| 項目 | PTSD | 複雑性PTSD |
|---|---|---|
| きっかけ | 事故、災害、暴力被害など、比較的短期間の強いトラウマ | 長期反復的で逃れにくいトラウマが背景にみられやすい |
| 中核症状 | 再体験、回避、現在の脅威感 | PTSDの3症状に加え、感情調整困難、否定的自己概念、対人関係の持続的困難 |
| 生活への影響 | 特定の記憶や状況で強く反応しやすい | 仕事、家庭、恋愛、対人関係、自己評価など生活全体に影響が及びやすい |
もっとも、実際の経過は、この表ほどきれいには分かれません。PTSDと複雑性PTSDは、連続した状態として理解されることが多いものです。どちらか一方に必ず当てはまる、というものではありません。同じ方でも、時期によって症状の比重が変わることがあります。診断は「今の状態」をもとに、医師と一緒に整理していきます。
関連する疾患
ここまでの症状に、心当たりが多い方もいるでしょう。ただ、よく似た症状は、ほかの精神疾患でもみられます。似ていても、背景や治療の重点は違います。自己判断で名前を決めず、専門家と一緒に整理することが大切です。
- 心的外傷後ストレス症(PTSD): 再体験・回避・現在の脅威感が中心で、自己評価や対人関係への広がりが前景に出にくい。複雑性PTSDと併存・移行することもあります。
- 境界性パーソナリティ症: 感情の揺れや対人関係の不安定さが似ていますが、背景のトラウマとの結びつきや自己像の感じ方に違いがあります。両者が併存することも珍しくありません。
- 解離症群: 記憶のとび、別人になったような感覚、現実感の喪失が中心で、複雑性PTSDに解離症状が重なっている場合には、解離への専門的な配慮が必要になります。
- 抑うつ症(うつ病): 気分の落ち込み、意欲の低下、自責感といった症状が重なります。うつ病の治療だけでは回復が進みにくいときに、背景のトラウマを考えることがあります。
- 不安症: 過覚醒やびくつきが似ていますが、複雑性PTSDでは特定のトラウマ記憶との結びつきが強い点が異なります。
目的は、名前を一つに決めることそのものではありません。今のつらさに合う治療を選ぶための整理です。
治療の基本
「こんなに長く続いてきたものが、本当に変わるのだろうか」。そう疑いたくなるのは自然なことです。複雑性PTSDの治療は、ひとつの方法で一気に解決を目指すものではありません。その代わり、段階を踏んで、安全と回復を積み上げていく道筋があります。国際的には、安定化・トラウマ処理・再結合という3つの段階を意識した進め方が広く知られています。
1. 安全の確保と安定化
最初の段階で優先するのは、過去の記憶ではありません。今ここでの安全です。暴力や搾取がまだ続いているなら、そこから離れる準備を整えます。睡眠、食事、生活リズムという土台を固めます。自傷や希死念慮があるときは、その安全確保を先に行います。つらい感情を和らげるセルフケアや、安心できる人とのつながりも、この段階の柱です。薬物療法で不眠・不安・抑うつを軽くすることもあります。
「早く思い出して、すっきりしたい」と思う方もいるでしょう。その気持ちは自然です。ただ、十分な安定がないままトラウマの記憶に直接触れると、かえって症状が悪化することがあります。急がないことも治療の一部です。
2. トラウマに焦点を当てた治療
十分な安全と安定が得られてはじめて、トラウマ記憶に向き合う心理療法を検討します。代表的なアプローチには、トラウマに配慮した認知行動療法や、眼球運動による脱感作と再処理法(EMDR)があります。対人スキル訓練と物語曝露を組み合わせる、段階的な治療も知られています。いずれも、治療者と一緒に自分のペースで進めることが大切です。なお、当院では認知行動療法とEMDRは行っておりません。国内では、国立精神・神経医療研究センターが中心となり、臨床研究が進められています。段階的なスキル訓練と物語療法を組み合わせた、治療プログラムの研究です。
薬物療法は、不眠、強い不安、抑うつ、悪夢、過覚醒などの症状を和らげるために使うことがあります。薬は症状を弱め、心理療法に取り組むための土台を整える役割を担います。必要に応じて、選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)を用いることもあります。何をどこまで使うかは、症状と合併症、患者さんの希望を踏まえて主治医が判断します。
3. 再結合と生活の再構築
最後は、日常を立て直していく段階です。人間関係、仕事、学業、家族との距離感、そして自分らしさの回復。「自分の人生を生きている感覚」を取り戻す時期でもあります。ここでも、焦らないことです。揺り戻しを前提に進めていくことが大切です。
4. 支える環境とセルフケア
通院とあわせて、日々の暮らしのなかでできる工夫もあります。
- 寝る前の刺激を減らし、睡眠の土台を整える
- 今いる場所を確かめるグラウンディングを身につける
- つらさの引き金になりやすい場面を記録する
- 安心できる人・場所・連絡先をリスト化しておく
- 自分を責める言葉に気づき、少し言い換える練習をする
- 無理に全部を思い出そうとせず、回復のペースを守る
「自分が甘いだけでは」「もう昔のことなのに」と、自分を責めたくなる方は少なくありません。しかし、症状が続いているなら、それは気の持ちようではなく、ケアが必要な状態です。トラウマに理解のある精神科・心療内科で、段階的に支援を受けていくことをおすすめします。
家族や周囲の方へ
本人ではなく、家族やパートナーの立場で読んでいる方もいるはずです。何をすればいいのか。役に立つのは、原因を追及することよりも、今の安全と安心を一緒に整えることです。無理に話させない。正しさで押し切らない。気分の波を「わがまま」と決めつけない。境界線を保ちながら見守る。こうした姿勢が支えになります。
- 「そんなこと気にするな」と軽く扱わない
- 急に距離を詰めず、本人が安心できるペースを尊重する
- 危機時の連絡先や受診先を共有しておく
- 本人の話に耳を傾けるときは「解決」より「理解」を意識する
- 支える側も一人で抱え込まず、相談先を持つ
支える側の疲れにも、目を向けてください。ご家族自身も、身近な方のつらさに長く触れることで疲弊しやすい立場にあります。無理のない範囲で休息と相談の機会を確保してください。必要なら、医療機関の家族相談や公的な窓口も活用できます。
早めに相談したいサイン
「まだ様子を見ていて、いいのだろうか」。迷うときは、次のサインを目安にしてください。
- フラッシュバックや悪夢で眠れない日が続いている
- 感情が急にあふれたり、逆に何も感じなくなったりして、日常が保てない
- 自傷や多量服薬、アルコールや薬物でつらさをしのごうとしている
- 「消えてしまいたい」「もう耐えられない」という気持ちが強い
- 解離で記憶がとび、危険な状況につながりそうになる
- 家庭内や職場で今も暴力・支配・搾取が続いている
- 仕事や家事、対人関係が立ち行かなくなってきている
このような場合は、トラウマや解離に理解のある精神科・心療内科に相談してください。希死念慮や「もう限界」という気持ちが強いとき、自傷や危険な行動が止められないときは、受診を待たず、下記の窓口にご連絡ください。一人で抱え込まないことが、次の一歩につながります。
- よりそいホットライン(厚生労働省補助事業): 0120-279-338(24時間・通話料無料)
- いのちの電話: 0570-783-556(毎日10時〜22時)/フリーダイヤル 0120-783-556(毎日16時〜21時、毎月10日は8時〜翌日8時)
- こころの健康相談統一ダイヤル: 0570-064-556(各自治体の相談窓口につながる)
- DV相談+(プラス): 0120-279-889(24時間)
- 性犯罪・性暴力被害者のためのワンストップ支援センター: #8891(はやくワンストップ)
よくある質問
複雑性PTSDは回復しますか?
回復に向かう道筋はあります。ただし、一気に全部が片づくというより、段階的な積み上げになることが多いです。安全の確保、感情の調整、対人関係の立て直し。良くなったり揺り戻したりしながら、少しずつ「自分の人生を生きている感覚」を取り戻していきます。
境界性パーソナリティ症とはどう違いますか?
感情の揺れや対人関係の不安定さは、たしかに似て見えます。違いは、トラウマ記憶との結びつきの強さです。複雑性PTSDでは、再体験や回避といったPTSDの症状がそろっている点が特徴です。両者が併存することも珍しくありません。どちらか一方に決めつけず、必要な治療を組み合わせて考えていきます。
過去のことを全部思い出さないといけませんか?
いいえ、無理に全部を思い出す必要はありません。治療で最優先するのは、今の安全と安心を整えることです。トラウマ記憶に向き合うのは、十分な安定が得られたあとの段階です。「思い出せないこと」自体を責める必要はありません。ご自身のペースで進めていきます。
薬で治りますか?
薬は、不眠、強い不安、抑うつ、悪夢などの症状を和らげる助けになります。それによって、心理療法に取り組む土台が整いやすくなります。ただ、薬だけで複雑性PTSDのすべてが整うわけではありません。段階的な心理的支援と組み合わせていくことが基本です。どの治療をどの順番で進めるかは、主治医と相談しながら決めていきます。
まとめ
「事件と呼べるものは、なかったから」。そう言って、つらさを性格のせいにする必要はありません。複雑性PTSDは、長く続いたトラウマのあとに、こころと体と人間関係の全体に影響が及ぶ状態です。PTSDの基本症状に加えて、感情調整の困難、否定的自己概念、対人関係の持続的困難が目立ちます。国際的な診断基準でも、独立した状態として位置づけられています。
そして、回復に向かう道筋はあります。大切なのは、焦って全部を片づけようとしないこと。まず安全と安心を取り戻すこと。そして、自分ひとりで抱え込まないことです。症状が生活に強く影響しているときは、トラウマや解離に理解のある精神科・心療内科に相談してみてください。

