
当事者の体験談;53歳、女性
自分のありようは自分でコントロールできると思い込んでいた
自分がなぜ、どういう動機から万引きをはじめたのか、はっきりとした原因や理由は分かりません。ただ事実のみ、生起した順に並べると、まず摂食障害を発症し、症状が拒食から過食、さらに過食嘔吐へと推移し、大量に食べ吐くことを覚えた後に、食べ物を万引きするようになりました。
次第に常習化するとともに、食べ物だけだったものが、それ以外のものも万引きするようになりました。ひどい時は盗れそうなものなら何でも手当たり次第に盗むという感じだったこともあります。
私は進学を機に親元を離れ、大学の寮へ入り、その直後に摂食障害を発症したものと思います。当時、素朴なやせ願望のほかに私はもう一つ体重を減らしたい理由がありました。
私はそれまでの人生において「自分のありようは自分でコントロールできる」と思い込んでいたのですが、体重だけ全くコントロールできないことに我慢ができなかったのです。それが非常に屈辱で、とにかく癪(しゃく)で仕方ありませんでした。体重も自分のコントロールに置きたい、自分の望むような体重・体型になりたいという思いが強かった記憶があります。
食事を制限することからはじまったダイエットは極端な拒食となり、それが突如、過食へ転じ、さらに過食嘔吐へ進んだ後に、食品の万引きがはじまりました。よく言われることですが、たくさん食べたいのに食品購入に使えるお金に限りがあるから、どうせ吐いてしまうものにお金を使いたくないからという説明になんとなく辻褄が合います。
自分にそういう心理があったことは否定しませんが、それだけかというと違うのが正直な気持ちです。私の場合、次第に食品以外の物も盗むようになりましたし、18歳で発症して以来、ずっと摂食障害、それも大半は過食嘔吐を繰り返してきたのですが、ほとんど盗まない時期もありました。単純に過食のみが万引きの動機とは言えないのではないでしょうか。
一方、毎日必ず何か盗んでいた時期もあります。そういう時は盗むことがほぼ日課のようになっていて、行為が習慣化・自動化されていました。自分の行為は許されることなのか、そんなことをしていいのかと自問することもなければ、やろうかやめようかという逡巡も、やってしまおうという選択も決断もありません。
習慣化された日常行為として、例えば、はみがきでもするように淡々と行為に及んでいた感じです。おそらく自分を判断停止状態に置くことで、犯罪に他ならない自己の行為を直視することから逃げていたのだと思います。
執行猶予中の万引きからようやく治療へと
ともあれ、何度か警察へ連れて行かれるようなことがありつつ、なんとか穏便に済ませてもらい、周囲には知られることなくどうにかやっていました。不本意ながら学業を終え、社会へ出ることになり、自分の人生が思うに任せられなくなってきた頃から、万引きがひどくなって気がします。万引きを続けながら、もう止めたい、こんなこと続けたくないという気持ちがあるのに、自分ではどうにも止められなかったのです。
盗む量と頻度が増すに従い、取り締まる側の対応も厳しくなり、謝れば帰してもらえるという訳にはいかなくなってきました。起訴猶予になったものの、次は略式命令で罰金刑に、それも歯止めにならず、起訴され裁判になり、懲役1年執行猶予3年の判決を受けたのですが、その期間に万引きで逮捕されました。
この事件をきっかけで弁護士の尽力により、病院の入院が決まり、ようやく専門的な治療を受けられることになりました。入院と並行して裁判も進行し、入院4ヶ月目を迎えた判決は、すでに治療に入っていること、治療に一定の効果が認められることを酌んで、温情ある判断のもと、執行猶予が認められました。半年間の入院を経て、現在まで盗まない生活を送っています。
盗品で心の隙間を埋めていたのではないか
自分の行動が病的だったのは、例えば次のようなことです。はじめは欲しいと思っていたものを盗っていたはずなのに、いつしか盗れそうだと思うと盗るようになっていました。別に欲しかった訳でもないのに、たまたま店に入り、周囲に人目がなく、盗れそうな状況だと、盗らないのは損ではないかという、なんとも倒錯した気持ちになり、欲しくもなかったものを盗んで持ち帰っていました。
盗んだものは欲しかった訳でもないので、その辺に放り出していたのですが、翌日など正気に戻ってから目に入ると、自分でもあまりの異常さに慄然(りつぜん)とするということがしばしばありました。
毎日同じ鞄を持って店に行き、その鞄の口のところまでパンパンになるまで、隙間なく消費を詰め込み、ファスナーを閉じて作業完了という気になっていた時期があります。鞄にほんの少しでも隙間が残っていると落ち着かず、この空いた隙間に収まる商品はないかと店内を見渡し、手頃な商品が見つかると、それが欲しいかどうかは関係なく、隙間に押し込み、ファスナーを閉じ安心するという具合でした。
盗ることが目的なのか、鞄を隙間なく一杯にすることが目的なのか、訳がわかりません。物を溜め込無にしても、鞄の隙間を埋めるにしても、心の隙間を埋めようとしていたのではないか、心理的な不全感を物で埋めようとしていたのではないかという、代償行為だったのではないかという気がしています。
ようやく正面から向き合うように
こうした生活からの転機は、入院のきっかけになった最後の万引きです。逮捕・留置・拘置されている間、否応なくなぜ自分は万引きするのか、なぜ万引きと過食嘔吐を止められないのかという、それまで考えないようにしていた問いにようやく正面から向き合うようになりました。
治療のプログラムに、自分と向き合い、過去を振り返る「棚卸し」があります。私はこの時期、自己流ながら棚卸しに着手していたのだと思います。
これまで自分の万引きは過食嘔吐・摂食障害にあると考えていたのですが、どうやらそうでないらしい、摂食障害になる前から万引きをするような認知があったと気づきました。摂食障害さえ治せば万引きも治ると簡単に考えていたのですが、そうではない、自分に内在するもっと根深い問題があると気づいたのです。
幼い頃から一貫して私の行動を主導していたのは、他人が見ていなければ悪いことをできる、他人に知られなければなかったと同じという、極めて自己本位な考え方です。
私は、自らの信念や指針に基づかず、もっぱら他人の評価に左右され行動してきました。他人が見ていれば頑張るのですが、見ていないと頑張ってもしょうがない、馬鹿馬鹿しいと手を抜いていました。それどころか、他人の目がないと、ルール違反をしたり悪事を働いたりすることに痛痒(つうよう)を感じない人間でした。
他人が見ていようといまいと、やるべきことはやらなければならない、やっていけないことはやっていけないという、実に当たり前のことを自分に躾けていかなければならないと考えています。
損をしたくない、少しでも得をしたい
他人が見ていなければという狡猾さに加え、万引きを繰り返していた私は、自分ばかりいつも損をしている、貧乏くじを引いている、他の人より報われていないという不満、怒り、怨嗟をいつも心の中でくすぶらせていました。
こうした負の感情と、他人のものを盗んでしまうこととは、極めて近いところにあり、両者を結びつけることで自分の行為を正当化していました。自分のやっていることは悪いことだけれども、自分はいつも損をしているのだから、報われないのだからといった言い訳をしていました。
このような認知と行動の背景にあるのは、損をしたくない、少しでも得をしたい、せめてプラスマイナスゼロにしたいという損得勘定です。思いがけない出費、不本意な支払いという金銭的なこと、物を失くした・壊したという損失、さらに、叱られた、批判された、腹が立った、傷ついた、辛かった、悲しかった、落ち込んだ、妬ましかった、悔しかったというネガティブな感情も損でありマイナスでした。それをなんとか埋め合わせたい、取り返したい、せめてプラスマイナスゼロにしたいという強迫的なバランス感覚が働いたのです。
マイナスを手っ取り早く埋め合わせるのが食べる、盗るという行為でした。特に感情的なマイナスに関し、感情なり心理なりの次元で対処できず、身体の不調や不正な行為で表出していたところは自分の幼さ、弱さだったとつくづく思います。
世の中は自分の思うようにいかない
普通に考えると、自分ばかり他人に比べ不利益を被っていることはありえません。やはり自分の認知が歪んでいたのだと認めざるをえません。ではなぜそう考えてしまったのか。
大人ならば誰もが成長するにつれわきまえる「世の中は自分の思うようにいかない」という当たり前の道理を認識できていなかった、要するに子どもだったということです。
子どもは世の中が自分を中心に回っており、自分の思う通りに動くと考え、そうならないと不満と怒りを覚えます。私の自分ばかりいつも損をしているという不満や怒りは子どもじみた自己本位な認知だと分かってきました。
現在、私は自分の窃盗症を病気と考えなくなりました。自分の行動を制御できないことは単に子どもだからではないでしょうか。せめて年齢相応に成長しなければならないというのが、恥ずかしながら私の課題です。
私にとって万引きと過食嘔吐は共通していました。万引きは欲しいものを手に入れ、お金を減らさないで済む、過食嘔吐は食べたいだけ食べ、体重を増やさないで済むという相反する「いいとこどり」です。
自分にとって都合の良いいいことずくめのため、はまっている限り、本人はこの上なく心地よく、止められません。
欲しいものを手に入れるには、お金を減らさないといけない、食べたいだけ食べたら、体重が増える、どちらかを選択するのが大人です。子どもだった私は、どちらかを選択して、どちらかを諦める、手放す、断念するということができなかったのです。
両方を手に入れることはできない、世の中は自分の思うようにいかないという道理に納得できず、両方とも手に入れたい、そのためには法を犯すことも、健康を失うことも厭わないというのが、万引きであり過食嘔吐でした。
二つのうち一つしか得られない、一方を手に入れれば他方は諦めなければならない、何もかも自分の思う通りに行く訳がないということを受け容れ、わきまえることが大人になる、成長するというということではないでしょうか。
窃盗症・クレプトマニアーその理解と支援、中央法規より、一部改変